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放射線リスクコミュニケーション:福島での経験

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 もし今、周囲がパニックになるような事態が起きたら、どのように対応するだろうか?

 このほど公開される手記。これは、2011年に発生した原発事故直後から、不安と混乱でいっぱいの住民と向き合った、放射線被ばく専門医の記録だ。「私たちが事故直後に行ったクライシスコミュニケーション(危機管理対応)は、原子力災害後、世界で初めて行われたものの一つではなかったか」(「はじめに」より)

 2011年3月11日、東日本大震災の発生とともに起きた福島第一原発事故。色も臭いもない放射性物質による汚染に、福島県民は不安と混乱に陥った。

 「このままでは、福島県がパニックになる」この連絡を受けて、原発事故の直後から放射線被ばくと健康への影響を説明してきたのが、長崎大学の原爆後障害医療研究所で教授を務める高村昇氏である。

 放射線とは?被ばくとは?シーベルトやベクレルという単位とは?そして、健康への影響は?放射線被ばくに対する住民の不安は、行政への不満となり、怒りとなる。震災と原発事故の影響を受けて物資がストップする中、高村教授は福島県からの要請を受け、文字通りマイク1本で講演した。住民からは次々に質問が寄せられ、質疑応答は2時間にも及んだ。

 一方、現場での対応を余所に、東京から発信された情報がひとり歩きした。福島への風評被害、ネット上での中傷、反対派グループの出現…。中には風評被害により、東京の企業から就職内定を取り消された福島出身の大学生もいる。

 しかし、高村教授は活動をやめなかった。それは、震災直後にもかかわらず、人を思いやる気持ちを大切にする福島県民の「真心」に触れたからだ。「我々が福島での活動をやめると、一番困るのは真心ある県民だ」

 住民がパニックになるような状況の中、専門医はどのように対応し、危機を乗り越えたのか。この記録は、行政や企業など、あらゆる組織で危機管理対応する立場の人にとって、役立つものとなるはずだ。

誰も経験したことがない「危機管理対応」

 原発事故の発生から8年が経った今、なぜこの記録を公開するのか。長崎大学の原爆後障害医療研究所教授で本稿の著者、高村昇氏は次のように書いている。

「私が住む長崎では、ともすると東日本大震災、そして福島原発事故は忘れられがちですが、一方で福島では未だ4万人を超える福島県民が故郷に戻れていないという現実を忘れてはなりません」

 本稿の公開理由は、福島の現実を忘れてはならないことと、もうひとつは、海外の専門家からの要望でもある。 「以前から、特に海外の専門家から『福島でのクライシスコミュニケーション(危機管理対応)の経験をまとめてほしい』という要望をいただいていました。あってはならないことですが、今後万が一原子力災害が世界のどこかで起こった時、8年前の私たちの経験が少しでも役に立てばと考えました。」

 そもそも、なぜ長崎大学の教授が福島原発事故の対応にあたったのだろうか。それは、高村教授の専門分野と深い関わりがある。高村教授はこれまでに、チェルノブイリなど旧ソ連邦の放射能汚染地域に何度も足を運び、放射線被ばくと健康への影響について研究しているのである。

 このため、原発事故発生から2日後の2011年3月13日には、長崎大学から5人の専門家が福島入りした。すると、長崎で情報収集していた高村教授のもとへ連絡が入った。「このままでは、福島県がパニックになる」そこで急きょ、高村教授も福島へ向かうことになった。 「福島に到着したその日にいきなり講演を依頼され、福島医科大学で、チェルノブイリの事故と今回の事故の差異を話しました。話の最後には、職員の方の安堵感が伝わってきましたが、参加者の一人から『御用学者』と言われ、驚いたと同時に、これはえらいところに来たな、というのが初日の正直な感想でした」

3月18日福島医大での講演会

 この日の翌日、3月19日に高村教授は、福島県からの要請を受けて「福島県放射線健康リスク管理アドバイザー」に就任。本稿の中心は、高村教授がアドバイザーに就任直後から7日間に渡り、福島県内各地で講演をし続け、不安と混乱の住民に向き合った記録だ。

不安と混乱の福島県民に向き合った

 講演というと、通常はスライドの使用や資料の配布をする。しかし、当時は震災と原発事故の直後。物資の供給はストップしており、避難所になっている体育館が講演会場になることもあった。このため高村教授は、文字通りマイク1本で講演した。

「原発災害というまったく未知の体験による不安、不満がピークに達していた参加者からは、野次が飛んでいました。私は普段から講演会などで話すことも多いのですが、さすがに野次や怒号が飛び交う中で話した経験はありませんでした」

 異様な雰囲気の中で講演を続けながら、高村教授は少しずつ、福島県民の不安がどこにあるのかが理解できるようになった。当時、事故の状況を説明する番組がひっきりなしに流れているにもかかわらず、「マイクロシーベルト」などの言葉がどういう意味を持つのかという説明がなかったのだ。

「巷にあふれていたベクレル、シーベルトといった単位をわかりやすく説明し、同時に半減期を説明することで、住民に安心感を持っていただく必要があると考えました」

 住民の不安は、食べ物や飲み物などの内部被ばくに対するものと、外に出たりすることによる外部被ばくに対するものだった。こうした質問に対して、高村教授はひとりひとりに丁寧に答えた。講演会での質疑応答は、時には2時間に及ぶこともあった。 「どこの会場であっても住民の不安が大きく、それがときに怒りとなって表出することがありました。ここですべての質問を受けきらないと、来られた住民は納得せず、それがパニックにつながってはいけないと考えていました」

3月20日 いわき市 平体育館での講演会

 こうした現場での対応の一方で、福島に対する風評被害が起きていた。東京の企業に就職が決まっていた大学生は、原発事故後に会社から呼び出され「これから三年間は福島に帰らないと約束してください」と言われたため、内定を断ったという。それを聞いた母親は「娘を誇りに思う」と高村教授に話した。

「私はその話を聞き、思わず涙を流してしまいました。原発事故後、福島で涙を流したのは、後にも先にもこのときだけです」

 その後も福島への風評被害は続いた。さらに、高村教授の福島での活動に対し、非難めいたメールが届いたり、ネット上で「叩く」ような書き込みをされたりした。それでも、高村教授は活動をやめようと考えたことはなかった。

「実際に福島に足を運んで、多くの方の『真心』に触れることができたからです。未曽有の震災があってもなお、人への思いやりを大切にする福島の方の真心に接していると、我々が活動をやめると一番困るのが、このような方々であるということが容易に想像できました」

2013年4月 長崎大学と川内村との包括連携協定締結式

 現在も、原発事故による被災地の復興支援に関わっている高村教授。事故発生直後の危機管理対応を振り返って、次のように書いている。 「一番大切なことは、来られた住民の方の質問を、覚悟を決めてすべて受ける、決して逃げないことではないかと思います。そのような心構えをもつには、質問を受けきる知識が必要です。それをもったうえで、住民とどのように向き合うか。それも含めた人材の育成をやっていかなくてはならないと考えています」 。

書籍紹介

放射リスクコミュニケーション:福島での経験

東京電力福島第一原発事故直後から、著者は福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの一人としてクライシスコミュニケーションとリスクコミュニケーションを行い、福島県内各市町村の住民へ「放射線被ばくと健康影響」について説明し、質問に答えた経験を記した。

発売日:2019/03/28

書籍紹介

放射リスクコミュニケーション:福島での経験

東京電力福島第一原発事故直後から、著者は福島県放射線健康リスク管理アドバイザーの一人としてクライシスコミュニケーションとリスクコミュニケーションを行い、福島県内各市町村の住民へ「放射線被ばくと健康影響」について説明し、質問に答えた経験を記した。

発売:2019/03/28

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